うつ病を患う人は、世の中を「比較的正確に捉えている」可能性が高いんじゃないか──。
そんな問いが、ふと私の中に浮かびました。
もちろん、これはすべての人に当てはまるわけではありません。
けれど、ポジティブに考えたり、都合よく受け流すことができないがゆえに、社会の理不尽や矛盾をシビアに受け止めてしまう人が一定数いる。
そして個人差はあれど、どこかのタイミングで「うつ病」を患う。
私自身の経験を踏まえ、ひとつの視点にすぎませんが、この仮説をもとに「優しさ」との関係について綴っていきます。
優しさの行き場
人は本来、優しさを発揮しながら生きている。

しかし、効率や成果ばかりが求められる社会の中で、その優しさを自然に発揮することが難しくなっている。と、私は感じています。
優しくあることが「弱さ」や「非合理」とみなされ、隠さざるを得ないことすらあります。
そんな中で、わりと優しい人ほど苦しみやすく、心を痛めやすい傾向にある。
優しさを発揮できない構造そのものが、生きづらさを生んでいるのかもしれません。
見える優しさと見えない優しさ
私が思うに、優しさには「見える優しさ」と「見えない優しさ」があります。
- 声をかける
- 気遣う
- 知識を分かち合う
こうした「見える優しさ」もあれば──
誰にも気づかれなくても、陰ながら相手を思う「見えない優しさ」もある。

本来、優しさは測れません。
ある人には「ありがたい」と受け止めてもらえても、別の人には「余計なお世話」だと感じられることもある。
だからこそ、
私が考えたうえで最も理想的な優しさは「相手に気づかれないほどの、さりげない優しさ」です。
気づかれなくてもいい。承認を必要としない。
本当の優しさはこうなんじゃないかと、、、。
優しさは水のようなもの

私のイメージする優しさの在り方は「水」です。
相手を包み込むイメージ。
守るイメージ。
ときに温かく、ときに冷たく、状況に応じて形を変える。
優しさって、そうした水のように相手に寄り添い、押し付けることなく存在する。
それが目に見える優しさであろうと、見えない優しさであろうと、相手の人生の一助になれば、それでいい。そうでありたい。
罪悪感と自己への優しさ
ただ、ここで一つ大切なことがあります。
優しさを他者に向けることはできても、自分自身にはなかなか向けられない。

たとえば、うつ症状の重い朝。
なんとか かんとか会社の上司へ「遅れて出社します」と伝えることができた。
休むことはできなかったけれど、“少し調整する”という形で自分を守ることはできた。
しかし、遅れて出社するという決断をしただけでも罪悪感がのしかかる。
罪悪感は生じてしまうが、それでも“少し調整する”という形で自分を守ることができた。
この小さな決断は、確かに「自分に優しくできた行為」です。
理解を得にくい症状であり、なんなら自分の考えがまわりとずれていて「自分は甘えているのでは」と思ってしまうことがあります。
けれど、この罪悪感こそ「人を思いやる優しさの裏返し」なのかもしれません。
結びに
優しさは、見えるものも、見えないものも、どちらも尊く、
測れなくても、形にできなくても、確かに人を支えています。
ただ生きているだけで価値があり、誰かを支えている。

むしろ、そういった目に見えない優しい景色がある。ただ見えていないだけ。
優しさは、気づかれないところで確かにめぐり続けています。
この記事が、あなたの心をほんの少しでも軽くする優しい水になれれば幸いです。
それじゃ またね👋